人生解剖。

自信と、人間関係と、インターネットと、何も持ってないけど、それらをこれからちょっとずつ足していく。できる。生きてるなら。

貧乏だからこそ、働く力を。

 

どうも、私はだらだらと無職を続けている者だ。

たまに親戚の畑仕事や、農産物の収穫仕事でもらえているお小遣いで何とかやってる底辺パンピーだ。

ブログでは偉そうなことを叩きつつ私はこうして親のすねかじりをする人間の一人である。

 

 

ニートになって早数年、親がだんだん心配してきた。

金の心配だ。

つまりその金とは切っても切れない「仕事に就いて働く」という心配だ。

ニート生活を続けているとぶち当たる登竜門である。

 


親としてはいつまでも成人した人間を食わせられない

というかこうしてだらだらインターネット触って遊んでいる奴に自分の働いた金を消費させたくない。

(どっちも本音だと思う)

だからなのか


「アルバイトはもうしないの?」

「ブログでもやったら?」

クラウドソーシングとかアンケートだけでもやってみなよ」

 

と言われるようになってきた。


母親はこれと言って働くことに関しては言わない。

平和。

でもたまに、ハローワークの求人冊子を無言で机に置いていく母。

アクションはそれだけ。

平和(多分)。

 

上記のセリフを言ってくるのは、父親の方なのだ。

しつこく残りの所持金を聞いてくるので、教えると「そんだけ?!」と驚かれる。

それからというもの、「自分で働く・稼ぐ」方向へ私に声をかけてくるようになった。

え?驚くくらいなら援助してよ。

 

 

私個人としては

言い訳はいくらでもあるのだが、さんざん近所のバイトでうんざりしてきたのでもうこの辺で働くのはいや。

クラウドソーシングも「Amazonレビュー高評価で○○円!」とか、「私のサイトの広告から会員登録で○○円!」とか、
人を騙すのも興味ないサイトの会員も理由なくいや。それを悪とは言わない。

ブログで稼げたら苦労しない。

もう全部にうんざり。

ここまでくると人間性の問題なのか?それとも環境の問題なのか?

ともかく働くことが人生において不必要にさえ思う。

働きたい奴が働いて、わたしみたいな社会不適合者でも生きていける世の中だといいのに。

 

 

でもその親の心配も終盤になってくると変わってきた。

「なにかしたいことがあるなら、お金出すよ」

そう、父親の羽振りがよくなってきたのである。

最近、昇進したからね。

うち兄弟めっちゃいて貧乏なのに、自分の稼いだ金家に入れず、車一台とバイク二台買ったものね。

完璧調子こいてる。私もニートとして調子こいてるのでカエルの子は何とやらというやつか?

 


金とはここまで人を変え、心に余裕を生み出すのか…

 


といっても、仕事や社会につながる生産性のある事のみに資金援助する、と断言していた。

 

ともかく、私に働いてもらって、自分が安心したいだけらしい。

金があっても、人とは心配が絶えぬものなのね。

 

羽振りがいいのに「遊びたいからお金ちょうだい」って言ってもくれないんだよね。

でもお仕事の手伝いをするとお金をくれる。

 

遊ぶ金は自己責任、仕事さえすればお金はだす、こうして人は生きていける。

ってことを示してきてるんだろうなあ、と思った次第です。

 

働いてほしい意志は伝わったのだけど、働くってどうやるの?

 

働きたくないんだけど…

 

 

関係ないけど

ホリエモンさんって働くことが純粋に好きな人なんだね。

 

好きってかそれが生きることにつながるらしいね。

 

私が生きることと同義と言える、そんなものがあったら私の世界は変わるんだろうか?

 

あなたの生きると同義の仕事、作業、活動、「ライフワーク」とはなんだろうか。

役立たずの弁明

「他にできるやつがいるならあたしができるやつになる必要なんてない」 

 
そんなふうに無意識に考えていたのはなぜだろう。
 
他にできるやつがいるなら私がする必要はない。
 
自分よりできる奴らばかりだったから、そんな環境の中で自分ができることは何だろうとずっと考えていたのかもしれない。
 
そんなことより自分がやりたいことをしてたらいいもんだし、上手い奴がいるならしなくていいなんて思わなくていい。
 
自分の希望を叶えずして他人の希望なんて叶えられるだろうか。
 
自分がいかに努力しても評価が得られなかったことの僻みなのかもしれない。
 
上手い人は評価を得ている。
 
コミュニケーションやひととの交流が好きだったり得意だったりする人たちのコミュニティをみて、それがとっても楽しそうで、その人輝いていて、すっごくうらやましかっただけなのかもしれない。
 
コミュニティ作りたいわけでもない私は、そんなふうに楽しそうに輝いている人を見てそのひとにひっついて取り込みたいと思った。
この輝きさえあれば。
 
そんなふうに勘違いしていた。
 
人が内から輝くものなんてそれぞれだ。
 
輝いている人はいっぱいいる。
ただ目に入りやすい人々がたまたまコミュニケーション上手だったりするだけで、わたしにはそれが必ず必要なわけでもないのに。
 
でも人の役に立っていないことは確かだろう。
私による私自身の評価ではそう思っている。
 
まんが「竜の学校は山の上」を読んだことがある。
その読み切りまんがの最後にもあった一文、「この世には二つのものがある。役に立つものと、役に立つかもしれないものだ」
 
こんなことばを引用して苦しい言い訳になるが、私は人の役に立っていないことは確かでも、死ぬ時まで役立たずでも、いつか役に立つ側の人間だと信じたい。
 
もっと言い訳をすると、昔の役に立たないと思われてきた人たちも現代の多様化によって、役に立つ場面が増えてきている。
 
やはり役に立つ部類の人間ではないが、きっとそのいつかはくる。
 
慰めでもいい。そう思っていたい。だからそう思う。
 
 
 
 

とはいいつつ

 
別の考えもある。
 
だって信じ続けてやっぱ違いましたって滑稽だよね。
 
全然それでもいいんだよ。
でもいろんな生き方があってもいいじゃないか。
 
役に立たないことをぞんぶんに受け入れて生きていくことも役立たずの克服には必要だ。
 
そうしなければ役立たずを抜け出すことなんてできない。
 
憧れを見つめていてもその憧れ以上になるどころか憧れ以下で止まるだろう。
 
だから、まずは自分の現状をしっかり見つめたい。
 
いっそ役立たずだと受け入れて生きていくことは勇気がいるが、自由が広がることなんじゃないだろうか。
 
誰かに期待をかけられない、責任を気にしなくていい。とっても自由だ。
 
フラフラ生きることがマイナスだと感じるのならどんなふうに生きていくか考え直した方がいいけれど、私は別にそんな生き方もじゅうぶんアリだと思う。
 
役立たずでも生まれたからには生きていく方法なんていくらでもあるんだから、人に期待をかけられない、自由な日々を過ごそう。

自分解剖

特に目的もないので自分を解剖しようと思っている。

 

 自分が何かしたいかわからず、ただ単に金に困っているのもあり、よくある

 

 「適職診断」

 「あなたにぴったりの資格」

 「占いから見るあなたの目的」

 

 などの占い系や適職をさがすサイトを堂々巡りしている。

 

 堂々巡りは願いを叶えるために行われていたとかいうけれど、願いは叶ったのかと言われれば……微妙。



 なんで自分解剖をしようと思ったのか。

 

 理由を挙げるとすればただの興味本位である……といいたいところだけれども……

 正直な話、ただ路頭に迷っている。

 

 アルバイトはしていたものの腹痛の頻発からやめた。だったらできることはなんだろう?そもそも、やりたいことというのがない。

 

 今世の中は、やりたいことがないとダメというわけではないけれど、それを忠実に追いかければ夢は叶うとどこでも言われているように思う。

 

 「ただ、自分のやりたいことだけ、やりたくないことは別の得意な人に任せられるようになろう。」

 

 単に自分がそういうサイトばかり巡っているということもあるが、よくこういった文をみかける。

 

 では、追いかけたいものがない人はどうしたらいいのだろう?

 

 こういったことを他人に聞いて決めようと思うことさえも、自分のことを決められない人間性が出ているが、とにかく調べてみた。

 

 「とにかく何でもやってみろ」

 「私と相談して決めよう→メールアドレスはこちら」

 

 と言われても、相談して決めたいわけでもなく、やりたいことがない人はいったいどう生きているのかというサンプルが欲しかった。

 

 そんな具合で、具体的なものは見当たらない。

 

 それも当然かもしれない。自分のしたいことなんて誰かに聞くことでも決めてもらうことでもない。自分で決めるものだ。自分の面倒は自分で見るもの。

 

 ……なーんて言われれば、私はもうどうしたらいいのかわからない。

 ずっと「私は、私は……」と考えてきた。そのわりに自分のことをよく知らない。自分のことばかりで他人のことを少しは考えろとも言われるかもしれない。でも、まずは自分のことを知らないと、誰かと接することさえも今わからない状態だ。

 

 なんだろう?自分のことを知るための手法がどこか間違えていただろうか?自分を知るという作業さえ間違っているのだろうか。

 

 友達ナシ。仕事なし。特技なし。やりたいことなし。とりあえず取り柄ナシ。

 

 自分でも笑えるくらいになにも持ってはいないことに気が付いた。

 そもそも、自分のことは自分で決めていいということさえも最近知ったことだ。

 

 だから迷っている。

 

 というものの、世で言われているバックパッカーになり何かを見つけようとする気力もない。

 

 でもずっとずっと知りたかったことがある。

 

 目を避けてきたことがある。

 

 不気味がられてずっと抑えていたものがある。

 

 それは人間のことだ。

 

 人間の奥深い闇と、人間が希望としている光。



なにそれ



 私も何それって思う。

 

 説明するのが難しいので、実体験を記す。

 

 ・家族が今日あったことを話しているとき。

 「友達がこんなドジしちゃったんだよ~面白いよね。」

 と言われると、その今日あったオチよりも後日談が気になり

 「その後どうなったの?」

 と聞き出す。

 でも話したかった面白い話は先ほど話したことであって、後日談はその人にとって重要なものではないから、「さあ」とか「こんなことがあったよ」と大雑把に報告される。

 

 

 私が気になってしまうのは、このような「事件」を引き起こした後、人はどんなふうに行動するのだろう、などの行動の詳細だ。

 

 あとほかにも、ゲームの魔王はどうして世界を欲しがるの?とか、犯罪者はどうして人を殺したり盗んだりしたいんだろう?見るからにメリットなんてないのに。

 

 そんなことばかり考えて生きて、しかもそれを人に聞いたりした。

 

 でも人はそんな話はしたくないようで、いつもいつも納得のいくような返事をもらったことがない。

 

 私はそういった犯罪者などの持っている悪意を理解できなかった。謎だった。

 そして悪意もわからない分、人が行う善意もよくわからなかった。

 

 どうしてありがとうと言うのだろう?

 

 言われたら嬉しいから。

 

 多分、それだけでいいものなのかもしれないが、そこからさらに「ありがとうはどうしてうれしいと思わせるんだろう?」

 

 そんなことばかりが疑問として残る。

 

 だけれど、こういったことを聞いても真面目に返答が来ないどころか、人の悪意の質問をすると、「二度とそんなこと言うんじゃない」といった釘まで刺された。

 

 大人になってわかったことだが、聞いたらいけないタブーだとか、人のトラウマだとかに疑問を抱いてそれをズケズケと聞いていたのだと理解はしている。

 

でも謎だ。

 

 自分にもある悪意と善意は、どうしてこうも人と違うのだろう。

 

 どうしてこんなに様々な感情があるんだろう。

 

 別に心理学者になりたいわけでもないが、今日まで日々そんなふうに思っては、思うだけで思考停止をする日々だった。

 

 というわけで本格的に解明していきたい。

 

 親や大人の束縛で私には自由がないと勘違いしてきていた。

 

 あれやってはいけない。これやってはいけない。

 

 それさえも自分で決められるものなんだと最近気づいた。

 

 人に制限なんてない。もちろん法に触れるようなことは避けないと人生難易度揚がるけどね。

 

 だから思う存分やるんだ。

 

 親や大人に隠れてこうして記事を書いている時点で臆病丸出しだけど、自分の思ったことくらい吐き出したい。

 

 その悪意は、善意は、私にいつだって感動を与えてきたものだから。

 

 

 

 

 ……あと文章力の向上も願いたい。

喧嘩に怯える人は喧嘩を引き起こす

真実ってなんだろう。

 

今日も目の前で夫婦喧嘩がおきている。

 

それをなだめる姉2。

 

うざったく見る姉1。

 

喧嘩の発端はうちの末弟の修学旅行のお迎えを、どちらがするかだ。

 

母は父に、

「迎えに行ってくれない?」

というと、父は

「えー、忙しいのに」

と文句を言った。

 

といいつつも、父は車を出して迎えに行く。

 

母はというと、迎えに行ってくれなさそうと思い、彼が車を出したのに気が付かず自分も車を出す。

 

そして母は迎えに行ってくれそうになかったから行ったのに!とプリプリ怒る。

 

それに父はひょうひょうと答える。

「迎えに行かないなんて言ってないじゃん」

 

どっちもどっちだなあ。

 

だけど、母ももっとしっかりすればいいのにと思う。

 

父の忙しいという態度に、

行くの、行かないの?

行かないならわたしが行くから!

 

とはっきり言うなら良かったのに。

 

もしくは二人とも迎えに行ったら行ったでなーんだ二人できたのねってお互い笑えばいいのに。

 

喧嘩よくする人は、喧嘩を起こしたくないゆえの控えめな行動(お願い)によってはっきりした意見を言わず、それで相手に意思が伝わらず、あとで「なんでわたしの気持ちをわかってくれないんだ」と怒る。

 

だったらはっきり言ったら良かったのに。

 

たらればだね。

 

悪口言われる。傷付く。傷付くのも、悪いこと?

傷つくことが、悪いことだと思っていた。

心が傷つけられると、体が縮こまる。

弱くなる。

泣いてしまう。

怒って後悔してしまう。

恥ずかしい。


泣くと家族には面倒くさがられていた。

どう対応したらいいのかわからなくなってか、みんなどこかへ行ってしまう。

泣いて面倒な人間はみんないらないんだ。

嫌いなんだ。

ずっとそう思ってた。


そのくらいで嫌いになったりなんてしない。

ただまあ、面倒くさがられるだけで終わるんだろうなと思う。

案外みんな気にしていない。

でも心配はしている。

悪いことだと思っていても、それは自分だけかもね。


なんでいきなりこんなタイトル

ブログでは誹謗中傷当たり前。

好きなことしてたらなおさら。

あるいはうらやましいと思う人が。

あるいはだれでもいいからむしゃくしゃを発散したい人。

当たり前と思っていても、受け取り方は人によって違う。


ていうか、泣かない人、傷付かない人はかっこいいと勘違いしていた。

実際には、そういう人はロボットみたいに感情が動かない人か、傷付くことに慣れてしまった人なんだと思う。

人から悪口を言われて泣く人はかっこ悪いと思っていたので、自分でもできるだけ泣かないようにしてきた。

軽い悪口を本気で受け止めて泣きわめいて傷ついて、そんなのただのおバカがやることだと思ってた。


でも実際には違うと感じ始めている。


むしろ人前で泣くのがかっこ悪かろうが、素直に泣けるのは、私みたいに臆病な気持ちがないからだ。

思い切り自分を打ち開いて、だから悪口がガツンと心にくる。

そして開かれた自分の心を強すぎるほど表現する。

それに強く感動する人もいれば、強く否定する人もいるだろう。

でもずっと誰かの反応をもらっているその素直な存在は、つまり常に誰かと繋がって生きている。


我慢しすぎは良くない

泣け!怒れ!と強く主張するつもりはない。

でも少しの表現が、きっとあなたを助ける。

我慢しすぎると、やがてそれをみた周りは、この人のことがわからないと離れてしまうかもしれない。

ギチギチの我慢によってつなぎとめられる人間関係を得るくらいならひとりで生きたいと思うくらい。

自分の感情を押し殺すのは自分の存在を消してしまうことになる。

誰かのために泣くのや怒るのを我慢しても、それではただの都合のいい人間だ。

自分自身の意思で生きていきたいと思うのなら、私たちは誰かと繋がるために感情を出す必要がある。


だからと言って、いいことなんだろうか?

傷付くことが、陰口を言うことがいいことだろうか。

私は、傷付いてしまっても素直でいることは自分自身の確立と自由のためには必須だと思っている。

だから私は素直な人に憧れている。

かっこ悪く見えて、みっともなくて、泣きわめいて、きっと周りからは私が思っていたことを言う人もいるだろう。

泣いてかっこ悪いって。

でも、他人の感情が今どう思っているのかがわかると安心する。

わからないひととは、接しにくいから。


陰口悪口、これはできるだけ言わないようにしているが…

うっぷんをためておけるほど善人聖人ではない。

むしろそんな完璧な人間は御免だ。

きっとなにかを守るために私は悪口を使う。

自分の心。

だれかのプライド。

悪口を言って、自分の意見を言うことは必要だと思う。

でも、うその悪口は自分の本当の意見ではないから、どうして嘘の言葉が出てしまうのか、本当のところはどう思っているのか考えるべきだ。


なかなかまとまらないけど

傷付くことも悪口も、いい悪いがあるけれど、自分自身の本当の主張を押し殺すことはだめだ。

自分を言うこと、行うこと。

それを辞めては自分を失ってしまうから、生きていきたいのなら主張をしてほしい。

主張によって人が離れたり、怒られることを恐れては、自分をやめてしまうことになるだろう。

それによって離れていく人は、あなたの主張を気に入らない、あなたのことを見ていなかっただけの話だ。

そんなつまらない人間といるより、自分の主張に反応してくれる人といた方がもっと、らしい人生を歩めるだろう。


とりあえずは、自分の現状を受け入れるところから。

自分は弱いところ強いところがあるということ。

どうしたって人生つらいことたのしいことはどちらも当たり前にあること。

どうせおとなしくしてても悪く言われるのなら、もう悪く言われたって我慢をしないと自分を解放して、好きな人生を歩むこと。

それを許すこと。


他人を受け入れるより、嫌なことを受け入れて我慢し続けるよりは自分のこと受け入れよう。許そう。

とりえあずはそれから。

それから次のことにすすめばいい。

そしたらそのうち、他人も受け入れられて、自分の主張を怖がらなくなる。

自分のことを大切にしすぎないように、自分がへこたれてたら大切に。

何より愛してほしい。


わたしは

なんかかっこいいこと言おうしてるけど、実践中なんだよね。

くっそくやしいとき泣きたい。切れまくって暴れたい。

でも反射的にストップがかかる。

主張できてねーじゃねーかって話だわい。


だから少しずつ、いまはそのストップをはずしている。

最近増えたのは「いや」って言うことくらい。

いやだってこと言うとき、けっこう気合入れてる。

言ったあとなんて手がさっと冷えてちょっとめまいがする。

でも相手はみんな思ったより優しかった。

じゃあこっちは?なんて言ってくれる人がいる。

ごりごりな提案してこれどう?って言ってた人は「いや」って言うと、特別機にした様子もなく話を続ける。

言われた人たちの心境を知ることはできないけど、もしかしたらいやって主張、みんなのまわりには普通にあふれていることなのかなってすこしずつだけど、観察することができた。


人間関係いやすぎて一年ぐらいPCと向かい合って出かけるのは必要なものの買い物くらい。

でもそろそろ人と分かり合いたいとおもって、最初に心がけたのが受け入れと主張だった。

そんなふうに実感があるから、記事を書いてみました。

人を恐れている人の、少しの参考にでもなったらいいな。

やっちゃいけないこと、やった方がいいこと。そんなのにとらわれないで、

やりたいことを。

 

選択した方がいい。

 

これは完璧個人的意見。

 

最近、やっちゃいけないだろうなと勝手に思っていたことをやってる。

 

仕事場の階段で弁当食べるとか。

 

夜中にご飯を食べるとか。

 

仕事を思い切りサボるとか。

 

やってみると納得して、続けようかどうか考えることができる。

 

もうやってしまったからやるかやらないかを考えなくていい。

 

あとはもう一歩また踏み出すかどうかだ。

 

くだらないことかもしれないけど、普段怖がってることに踏み出してみるのは、意外と自分の中の何かが溶けて消えて、なーんだ、こんなもんか。

 

と拍子抜けする。

 

人選のいろんな選択においても、こういったやってみる精神が自分に1番合っています。

 

ちょっとちいさい冒険。

 

 

ちいさいけれど、積み重なれば大きい。

 

わたしはいくつかのことに躊躇しなくなった。

 

堂々とNOが言えるようになった。

 

人に無理に気を使わなくなった。

 

やりたいことをやりたいと言えるようになった。

 

ちいさいけど何度も何度もやってみたおかげで、たくさんの冒険で、もっと人生を自由に生きることができた。

 

そんなことないですよとか、すごいですねとか言わなくなった。

 

もっと自分の意見を言えるようになることで、人にわたしというものを伝えられるようになった。

 

理解してもらえるようになった。

 

ストレスが少なくなった。

 

それによって人を愛せるようになった。

 

 

自分を大切に思うなら、やりたいこと、大きな夢じゃなくて普段の生活から、怖くて怖くてできなかったことを忠実に。

 

案外なんてことない。

 

傷ついてもいつか癒える。

 

どうしようと考えたらそれはサインだ。

 

どうしようと思うくらいなら、やってしまえ!

 

やってしまってダメだったらやめてしまえばいい。

 

もう一度したいと思ったら前を思い出して反省して再挑戦だ。

 

やってこんなもんなのかと思うなら、拍子抜けしてもそれは必ずあなたの自信につながる。

 

ひとつずつなにかを達成していくことのすごさをなめちゃいけない。

 

もちろん怖がっていい。

 

怖いの当たり前。

 

逃げたっていい。

 

でもやろうとするなら、そして行なったなら、それは必ず経験になる。

 

自分を大事にするのも当たり前だ。

 

でも、自分を見失うまで大事にして、むしろ大事にできてないなんてことにならないように。

 

どんなにくだらないちっぽけなことも、本気出して挑戦していこう。

ただ今の真実、

ひまだー(^ω^)

 

仕事では、我慢しなくちゃいけないことがたくさんある。

 

いやな人と話すとき。

 

したくない作業をするとき。

 

そして待機時間。

 

受付とか、仕事のフリ待ちとか。

 

○○さんが作業終わらないと、次ができない!なんて時があるんじゃないかと。

 

ひまな仕事に就くとわかった日から、ずっと「暇 仕事 すること」で検索してました。

 

その検索こそ時間の無駄遣いはなはだしい。

 

とはわかっていつつも検索してました。

 

そして今、暇な仕事でなにをしているかと言うと

 

・本を読む

       本読んでます。というか何冊か読み終わってしまいました。活字大好きってわけでもないので、飽きました…。

 

スマホ触る

       充電きれそう。目も疲れます。でも1番飽きません。データ制限かからないWi-Fiがあるからできてますが、Wi-Fiない環境だとずっとというわけにはいきませんね。

 

・ノート

       一人暮らしの計画を立てるためにノート買いました。書き込んでます。落書きもしてます。でもやっぱり飽きます。どこに住もうかな…

 

暇な環境に欲しいのはコンセントだな、としみじみ思いました。

 

暇な仕事って楽ですよ。

 

これでお金もらえますからね。

 

そして実際の経済的効果はどうなんでしょう。

 

暇な時間を与えられた人は日々なにを思うのかな。

 

自分、なにやってんだろうと思いふけるんだろうか。

 

晩御飯や明日のメニューを考えてるのかな。

 

暇になってしまうと、日々なにを1番に考えるか、その人、本人の中で浮き彫りになる瞬間がある。

 

わたしもつらつら考えていた。

 

時間が「もったいない」って。

 

自分で選んだはずなのに。

 

その選択に納得いかないとは片腹痛いわ。

 

なんか日本語の使い方違う気がするけど、とりあえず、よくわからない焦りをかかえている。

 

こんなにたくさん時間があったらなにができるだろうかと。

 

でも暇な仕事をする前、勤める前に、有意義と言える時間を過ごしていたわけでもない。

 

ただの焦り。

 

こんなことよりも、することがあるような気がする。

 

現状はないというのに。

 

しかし、暇な時間のある「仕事をしない仕事」には考えさせられてしまうのよ、勝手に。

 

しかも、結構な頻度で考えている。

 

そう認識すると、なんかアホくさくなってきたな。

 

なんでこの仕事をしてるんだっけ、って見失う時がままある。

 

思い出すといろいろ理由がある。

 

お金が欲しかったからとか、せっかく紹介してくれたから、誘われたからとか。

 

仕事がないからとか。

 

でも生産性ないなと、今確認できた気がする。

 

それよりも、仕事終わったらなにしよう、とか、もっと生産的なことを考えたい。

 

無理にそうする必要はないと思う。

 

だけど、ひまだからこそ、そういったことを考えて自分の人生のバランスをとりたい。

 

考えるのは自由だ。

 

制限は設けなくていい。

 

でも自由すぎるとなにを考えていいやら。

 

じゃあ普段と逆のことでいいや。

 

もっと生み出そう。